須雅屋の古本暗黒世界

札幌の古書須雅屋と申します。これは最底辺に淀んでいる或る古本屋が浮遊しつつ流されてゆくモノトーンな日々の記録でございます。

スガチャンズ・ウェイク

  7時起床。うどん、ナットー、トースト2、あんパン1、カフェ・オ・レ、冷水。

 普段纏っている防寒着はホームレスと見まがう土留め色のオンボロなので、数年前にR平岸さんから貰って箪笥に入ったままになっていたコート取り出して着用。8時前出発。寒。肌に冷気モロ。地下鉄札幌駅8時20分着。伊達紋別までのS切符買い(5980円)、8時34分の函館行きスーパー北斗6号にて札幌発。自由席がらがらで助かる。眠ろうと思うが眠れず、「ご自由にお持ち帰り下さい」と各席のポケットに置いてある車内誌『THE JR Hokkaido』を手に取る。父が倒れた2003年4月まで二年ほどの間、二ヶ月毎に帰郷していたのであるが、その行き帰り毎にこの雑誌に連載されている小檜山博の連載エッセイ「人生という旅」を読んでいた。中では「おっかけ」というタイトルのご自分愛用の原稿用紙について書いたもの、これまで千回ほども講演をしており、聴衆の前で歌謡曲を一曲披露して自分の緊張を和らげるとあった「講演の前」などが特に印象に残っている。雑誌開いてみると、エッセイではなく、現在は同じ小檜山博の掌編小説が連載されている。「級友」というのを読んだが、どういうわけか、以前のエッセイの方がより小説的であったように感じられる。

 10時7分JR伊達駅着。ホームにデカい兜の模型が飾ってあって、「武士道の町」とか書いてあるのを見て、そうかぁ?と思う。これが最後の見納めになるかもしれないので、一体どういう状態であるのか確かめておこうと、取りあえず実家のある◎◎町まで歩く。徒歩10分程。「北の湘南」と地元の人間が恥じらいもなく吹聴する伊達にしては雪が多い。家は建っていた。売却処分されて更地になっているか、誰か他人の家になっているかと想像していたが、二年八ヶ月前に見た時よりもさらに荒廃しながらも建っていた。屋根や壁のペンキ剥げ落ち、温室などは屋根が半分落下しており、その温室のガラスを何の木か知らないが庭の樹木の枝が伸びて圧迫している。家の周りをウロツイて見学、あまり長くなると、近隣から怪しい奴と誤解されかねないので5分ほどで打ち切り、また駅へ戻り、タクシーで葬儀場「やすらぎ」へ。その昔は繁華街(田舎の)から遠く田舎とされていたが、現在は大型店の立ち並ぶ(<GEO>もある)舟岡にあり、タクシー代1010円。霙が降り始める。

 二階の控え室(十二畳と四十畳ほどの二間続き)の日本間で二年八ヶ月ぶりに兄、十数年ぶりに義姉と甥二人に会う。想像はしていたが義姉とはなんとなく気まずい雰囲気。見覚えのない、眼鏡をかけた小太りの若者と色付眼鏡をかけた皮ジャン姿のロック・ミュージシャンみたいなカッコいいお兄さんがテレビを見ている。それが甥たちであると認識できたのは数時間が経ってから。おまけにミュージャン(実際は商社マン)の方は、自分が知らない間に結婚して子供が二人。たしか昭和27年生まれではあるが、四十代前半にしか見えないいつまでも若い兄ではあるけれど、いつのまにかおじいちゃんになっていたのである。兄一家は無産者の弟に気を遣ってだろう(よく云うと)、甥の結婚も孫の誕生も知らせて来なかったのである。実際、招待状もらっても結婚式には行けなかったに違いないので、有り難い配慮であったと感謝。

 義姉に促されて父と対面。広間の奥に父は寝かされていた。先月見た時よりもさらにやせ衰えて、それがそのまま白い蝋人形になったようである。従来の棒タイプの線香の他に現在では渦巻き型の蚊取り線香タイプもあるのを知る。

 兄が葬儀費用のことなど教えてくれる。母が死んだ時には僅かばかりではあるが余裕があり、それが少しでも母のためになるのならと悲嘆と動顛の中で思ってだろうが、院号というものを付けており、妻に付けられていると夫が死んだ時には自動的強制的にセットされてしまうのだそうだ。この院号代が20万で、僧侶の読経代が20万、その伴奏僧侶代が10万、しめて坊さんのみで50万が費消される。20年前の母の時が35万であったので諸物価の値上がりを鑑みれば致し方ないのか、という気持に庶民はついさせられる(これがよくない)。葬儀費用が六十ウン万、会場代が12万、祭壇が25万、その他、もろもろ〆て170万ほどになる由だ。百万ぐらいで納まってくれればと考えていた兄は、数字示されて、背筋、ざわっ、とした由。葬式が済んでも、坊さんは初七日まで毎日、それから月命日、四十九日だなんだと、その後もずっと拝みにやって来るので、ずんずんお布施という名の金がかかる。それが母が死んで父へ、父が死んで兄へ、そしてその子へと受け繋がれて行く。こちらが一度入ったら容易に逃してくれぬ葬儀産業、宗教産業におけるこの儲けの連鎖は凄い。兄の話では、葬儀屋さんはIさんという地元でも評判のいい、信頼の於ける人である由。人のやりたくないことをやる葬儀屋さんはそれ相応の金額かとも思うが、まことに坊主ナントヤラという言葉が浮かんで来るのを押さえ難い。そしてそういう坊さんの中には高級車乗り回し、ススキノに来て、夜の帝王をやっていたりするお人もあると北海道ではちらほら聞こえてくる(確かめた訳じゃないけれど)。むろん立派なお坊さんも大勢いらっしゃるとは思うが。

 兄の携帯画面に女児の写真が入っているのが見えたので、孫かと訊くと、相好をくずして、解説してくれた。昔から子供思いで家族を大切にし、夏などには道内をよく一家で旅行していた人なので、孫娘はまたひと際可愛いものなのだろう。

 持参した妻おにぎり三ヶをお茶で食して後は、箱根駅伝見ながら横になって過ごす。2時過ぎから、室蘭の母方の従兄弟夫婦が来る。伊達に住む義姉の母が来る。それから伊達に住む母方の叔父夫婦が来る。この夫婦は長らく関西方面にいて定年になり、北海道に戻って来た人たちなので喋りの半分は関西弁。保険や年金の話、水道料金の室蘭と伊達の比較などが話題の中心、その間にところどころ故人の思い出が挿まれる。年金にも保険にも関係のない自分は黙って拝聴するのみ。午後になって天気。まぶしいぐらいの陽が射す。
 3時納棺。葬儀屋さんのIさん、納棺師の資格を持っているそうで、20年前に母の葬儀をやってもらった業者さんとはかなりやり方がちがう。故人の肌を見せずに経帷子を一人で着せるところなど、実に上手いもので、さすがはプロの仕事と思える技だ。棺に故人の好きだったものをということで、パック酒と東都書房の黒函の推理小説全集、松本清張集のバラバラにしたものを入れる。実家にある父の書架から兄が持って来た本を、葬儀屋さんの指示で燃えやすいように先程、兄弟二人で解体したものなり。父はこの本、昔から繰り返し読んでいた。そして、眼光の鋭さと唇の厚さをうんと増せば、父の顔は松本清張にちと似ていなくもないのである。

 夕方、義姉の妹一家が来る。妹さんは自分の小中学校の同級生で、二十歳ぐらいと高校生の娘がいた。甥の嫁さんが娘、つまり兄の孫二人を連れて来る。一座がぱーっ、と明るくなる。一人はまだ赤ん坊みたいなもんだが、もう一人は、何かのテレビ番組のキャラクターのマネなのか、立って、額の左上から右下に手刀を切る動作をやって、「ちゅーにゅー」とか叫んでいる。ひいき目ではなく可愛らしい子であると見た。家族というのはいいものだなぁ、と素直に感ず。ちょっと羨ましいと思えるほど。兄が幹を作り、枝が伸び、葉っぱが茂って、実もなって、兄一族が形成されつつあるのだ。須賀秀幸ファミリーである。兄はドン・スガレオーネなのだ。一方自分はというと、妻と二人(彼女が出て行かなければの話であるが、)老いて消え行くのみ。後には何も残らない。

 食堂で夕食。カレーに入っているものを除いて、兄が一切、幼い頃からネギ類を喰えなかったのを、これも久しぶりに思い出す。「アキ、喰ってくれ」と云われて長ネギのみそ汁を二杯飲み、腹がたぷたぷとなる。

 6時から一階会場にて通夜。神社(と親戚間では通称されている)の従姉妹二人来る。遅れてその父親の神主をやっている(という表現でいいのか)母方叔父と大昔から、何十年も昔から神社にいる謎の女中さんも参列。母方の親族では一番の資産家と云われている一家である。親族以外の参列者も三十人ぐらいは集まっていただいたようだ。ちなみに旭川や札幌に住む父の兄弟親戚は誰一人来ない。これは父本人が不義理を重ねた報いなので致し方なしである。

 座っての向かい、祭壇のバック上部が、極楽のイメージなのだろう、ぽっかりと白く雲の浮かぶ青空になっている。それが、最近の流行りなのか、スコープだかなんだかで、左から右へとゆっくり動いて行く仕掛けになっている。あ、マグリットの空、と思いながら眺めていた。

 スガちゃん、スガちゃん、と父を煽てて手玉に取り、いいカモにして蓄財し、立派な自宅付店舗を持つに至ったスナックのママや、その前に父と親密になり、スガちゃん、スガちゃん、と甘い囁き(というほどの容貌ではなかったが)でくすぐり、捉まえたら離さずに、百八十万だか二百八十万だかのクルマをせしめたスナックのオバサンは来ていないようである。そう、父はかつて、この町の紅灯の巷で「夜の帝王」であった時期があるのである。

 坊さん二人の読経済み、伴奏の年寄りの方は下がり、若い方が、ちょっと15分ほどとことわって法話。自分より十以上も若く見える僧侶がガタピシの語源や煩悩について話すのを聞く。古本でお世話になっているお客さんのT畑さんが、出席した東京での元上司の葬儀では、焼香を済ますと一般参列者は順次会場から退出でき、坊主の話を聞かされるのは親族だけで、あのシステムはとてもよかった、と話されていたのを思い出す。お坊さんが退出して、自治会長さんである葬儀委員長の挨拶。これが普通とはちょっと違っていて興味深く、思わず笑い出しそうになる。幽明境を異にしても父という男は賛美されるのみの人間ではないらしく(それは生まれた時から見て来た者にとっては実によく分かるのであるが)、「須賀さんはキビシい人でした」「ウルサい人でした」という委員長自身の思い出感想が挿まれ、自治会や老人会などで何に付けても文句を云いたがる、喧しい、傍から見て煙たい手を焼く存在であったらしいのが想像される挨拶であった。今日は葬儀中の気絶は免れたようでほっとする。

 8時半から二階広間で親族近親者でのお通夜。さすがに父の思い出話も出ていた。オジさんオバさんたちにビール次いで廻った後は、兄と、小さい頃からよく遊んだ母方の従兄弟、室蘭に住む満弘氏、母の葬儀以来20年ぶりにあった兄の高校時代からの友人アベさんと飲む。最初、ビール、次いで日本酒地酒各種。アベさんの子供、一時不登校であった由。最近多いのね、ほんと。アベさん、ある信用組合に就職した自分の高校時代のクラスメートの先輩であったが、リストラされる前に辞めて現在は建築会社にいる由。頭が真っ白になったクラスメートの方はまだ在籍しているそうだが、どうしているか。11時前には皆さん帰られ、やがてアベさんも帰られ、兄と従兄弟と三人で2時過ぎまで飲み、自分は社員寮の浴場ぐらいの広さの風呂に一人入り、また飲んで4時近く就寝。気配に時折目を醒すと兄が線香を上げているのを見て、また眠る。風の音が聞こえる。