須雅屋の古本暗黒世界

札幌の古書須雅屋と申します。これは最底辺に淀んでいる或る古本屋が浮遊しつつ流されてゆくモノトーンな日々の記録でございます。

火曜 南陀楼綾繁氏による書評

◎『コミックMate』4月号(2月16日発売/(株)一水社)の「南陀楼綾繁の活字本でも読んでみっか?」第131回に『貧乏暇あり 札幌古本屋日記』が取り上げられました。著作者のご承諾を得ましたので、ここに転載させて戴きます。
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 「南陀楼綾繁の活字本でも読んでみっか?」第131回
 『貧乏暇あり 札幌古本屋日記』

 好きなことを仕事にできたら、どんなにいいだろう。若い頃はそんなことを夢見がちだが、実際そうなってみると苦しいことばかりだ。ライターを名乗るぼくも、資料の名目で買いこんだ本がやたらと増えていくが、仕事は減る一方。最近はカネがないので、古書の即売会にも行けず、古書目録が届いても見ずに捨てるしかない。フツーに就職していれば、趣味としてうまく本と付き合えたかも、といまさら悔やんでも遅い。
『貧乏暇あり 札幌古本屋日記』の著者である須賀章雅も、入口を間違った一人だ。「本や活字に関わる仕事に就きたく」て札幌に出て、二十代半ばで古本屋の店員となる。四年後に〈古書須雅屋〉として店舗を持ち、古書目録も発行するが、売り上げは伸びず一九九〇年代に通販専門となる。この十年ほどはインターネット販売がメインとなっている。本書は二〇〇五年から一一年まで、ブログ「須雅屋の古本暗黒世界」に綴られてきた日記をまとめたものだ。
 奥さんとインコと暮らす住居兼事務所は、文字通りの汗牛充棟。本書冒頭に載っているマンションの部屋の見取り図を見ると、立錐の余地もない。「Cの空間に入るためにも本の移動が必要なので、ベランダを通って本を探しに行く」などの異常なキャプションがついている。「映らないテレビ」が二つもあるのは、その空間から取り出せないためか?
 本に埋もれて死んだ評論家・草森紳一を思い出すが、ネット通販を仕事にしている以上、注文のあった本を見つけ出せなかったら仕事にならない(客はちょっとしたことでクレームをつけるし)。この部屋では本が主役なのだ。布団を敷くすき間もなく、奥さんは押し入れで寝ている。
 古書業界に入って三十年と云えば、押しも押されぬベテランのはずだが、著者の生活は貧乏というより「窮乏」の一語に尽きる。古書のネット販売も参入者が多くなりすぎたせいで、入力の労は多いが注文はジリ貧。注文を受けると、本の山を乗り越えて、目的の本を探し、丁寧に梱包して発送する。何度催促しても入金しない客はいるし(作家とか右翼の大物とか、名前のある人が平気で払わない)、ときには詐欺にも引っ掛かる。
 古書の市場で、専門の海外文学や詩集が出ても、手が出ない。
「この十年ほどの極貧と、二度三度とあった古書組合追放の危機が蘇り、どうも入札する段になると、支払日の前に脂汗を流しながら胃を押さえている自分の姿が脳裏に浮かんで来て、思い切った数字が書けない身体に成り果てている。絶対落札するという気合いが必要であったのに、すべては後の祭りなのである」
 儲かっている古本屋には買い取りや即売会の手伝いのアルバイトをさせてもらい、飲み屋でもおごってもらう。プライドはすでにない。東京や関西から大物古本屋がやってきても、遠くから仰ぎ見るばかりだ。
 生活はとても慎ましい。家電は貰いもので、買い物はスーパーの安売り、雑誌は立ち読みと、徹底して金を使わない。それでも健康保険などを滞納していて、督促されている。
 日記には、「うどん、ナットウ、冷水、胡麻パントースト二、ミニ餡パン一、牛乳、カフェオレ、紅茶」といった具合に食べたものが事細かに記入されている。寝る時間も起きる時間もまちまちなので、朝食や昼食ではなく「第一食」「第二食」となる。普通のメニューではあるが、なんでカフェオレのあと紅茶まで飲むんだ。
 このように、著者はどことなく世間とズレている、いやこの世界じたいとズレていると云ってもいい。ぼくは数年前に札幌で著者に会い、小樽に案内してもらったが、気がつけば、こちらが彼の世話をしている立場になっていた。なんだかほっておけないのだ。著者の周りの古本屋さんも同じなのだろう。ずっと身近にいる奥さんがいつまで耐えられるかは知らないが……。
 世に慣れない万年青年で、いまだに詩や小説を書いている。文筆の面でも二〇〇四年に「古本小説大賞」を受賞したのに主宰の「彷書月刊」は廃刊、初めての著書はいまどきブログ日記と、ここでも恵まれない(本人は小説かエッセイでデビューしたかったのだろうが)。これでは儲かるわけはない。おそらく著者は、一番「好きを仕事に」してはいけなかったタイプの人なのだ。
 この日記の七年間で、著者の父をはじめ、多くの人が亡くなっている。世話になった古本屋さんも亡くなった。もともと狭い世間が、ますます狭くなる。
 その一方で、昔自分が売った本に再会することもある。「なんか見覚えがあるな、このグラシン紙の掛け方といい、と思いながら手に取ってみると果たしてそうで」、それを買ってくれたお客さんの顔を思い出す。古本屋がいわば時間を扱う商売であると改めて感じるエピソードだ。
 こういった変化のなかで、窮乏生活を十年近く淡々と続け、いまだに古本屋でいられるということはスゴい。実は大物なのではないか? この人が生きていけるんだから、自分ももう少し「好きなこと」で頑張ってみようという気にさせられる。
●『貧乏暇あり 札幌古本屋日記』論創社、本体1800円。