須雅屋の古本暗黒世界

札幌の古書須雅屋と申します。これは最底辺に淀んでいる或る古本屋が浮遊しつつ流されてゆくモノトーンな日々の記録でございます。

金曜 開店の頃、酒の思い出(アンケートに答えて)

 2010年7月10日のこと、「組合史編集委員会事務局」から札幌組合員全員に下記のアンケートへの協力依頼がメールまたは封書で送られた。へんに律儀なところもある(?)自分は、これは『組合史』の中に収録されて印刷物として残る記録となるやもしれぬ、と古本仕事もうっちゃって(実はいつものことではあるのだが)、けっこうな時間を使ってアンケートへの答えを綴った。それから3ヶ月ほどして編集委員長からの要請で自分も執筆者として組合史に関わることになったのだが、そういえばあのアンケートもあったよなあ、と思い出したのは、『組合史』完成後であった。また、ただ恥の上塗りをするだけの結果に終わるのは知れているが、せっかく書いたものが永遠に無駄になるのもムナシイもの。で、ここに貼付けることにしたのである。『組合史』の極私的外伝の一部分として読めないこともなかろうし、もしもこの駄文を読んで楽しんで貰える人が一人でもいるのなら何よりなので。

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『札幌古書組合八十年史』のためのアンケート

札幌古書組合 組合員各位

前略
 今年5月の総会でもご報告しましたが、組合史編集委員会では現在、編集
のための基礎データ作成作業を進めています。
 つきましては、組合員各店の来歴などについてアンケート調査を致したく、
別紙の質問用紙にご記入の上、8月末日までに編集委員会事務局までご提出下さい。
 ご多忙のこととは存じますが、調査結果は組合史の基礎資料となります。わかる範囲で出来るだけ詳しくご記入下さい。編集のための資料・データについては多過ぎるということはありません。思い出・エピソードなどは、あくまで編集執筆のための材料と考え、あまり肩肘張らずに自由にお書きいただければと思います。(回答例をご参照下さい)
 生き生きとした組合史をつくるためにも、ご協力をどうぞよろしくお願い申し上げます。
草々

2010年7月10日
                        組合史編集委員会事務局


【追 記】
 古くからの組合員の皆様には、組合史に役立ちそうな写真・資料などがございましたら、是非ともお貸しいただきたく、心当たりなどありましたら随時編集委員までお知らせ下さい。早速お伺い致します。


Q1.貴店の創業年月日をお書き下さい。また札幌組合加入の年月日も併せてご記入下さい。(年月日については分かるところ迄、出来ればおよその月迄ご記入下さい) 

(回答)
開店日は1986年(昭和61年)6月1日
組合加入はおそらく同年5月1日。手元の日記によると、お菓子を携えて札幌の古本屋さんの挨拶廻りをし、弘南堂さんに寄って加入金を納めた後、庄一氏に昼食を御馳走になったようであります。たしかコンビニの二階にあるレストランでした。


Q2.創業者の氏名及び歴代の代表者名を、現在に至るまでお書き下さい。
  また屋号が現在と異なる場合は併せてお書き下さい。

(回答)
須賀章雅
 

Q3.創業時の所在地をお書き下さい(現在と異なる場合)。また、その後移転がある場合は、現在に至るまで全てお書き下さい。支店についても同様にお願い致します。

(回答)
昭和61(1986)年6月〜 札幌市北区北二十*条西*丁目に開店
昭和63(1988)年7月〜 札幌市北区北**条西*丁目に移転
平成8(1996)11月、店舗を閉じ、豊平区平岸3条17丁目のアパートの一室を借りて事務所とし、通販と催事販売(ラルズ古本市のみだったが)で営業。
平成10(1998)年4月、現在地に移転。催事もやっておりましたが、2001、2年から通販のみとなって現在に至ってます。


Q4.創業の頃の商売の様子について、店売りの状況・情景、印象深い仕入れや顧客にまつわる思い出など、どんな事でもいくつでも結構です。メモ書き風にお書き下さい。

(回答)
 最初の店舗は八坪ぐらいの広さでしたが、開店初日は104620円、二日目は70510円売れまして、おおっ!俺も成功者になれるんでは、と愚かな青年は錯覚致しました。三日目21720円、四日目7100円、五日目17070円、六日目26930円、七日目23400円、八日目16380円、九日目19080円、十日目17410円、十一日目16950円、十二日目20780円、十三日目16830円、とだいたい1万5千円ぐらいは売れ続けまして、関取か野球選手のように、さらに上を目指す、との思いのみは多少持ってはいたのですが、なにぶん努力らしい努力をしませんので、当然ではありますが、だんだん売り上げは下降してゆきまして一年後ぐらいには1万円を切る日が多くなり、二年後にはさらに落ち込み、ここはひとつ、いい場所に(と見えたのがなんともアサハカ)引っ越しして立て直すぞ、と移転した北**条の店舗では数年後にはひと月の売り上げは家賃と店買い分ぐらい、さらに数年後には家賃にも届かなくなるというテイタラク、もうユメもチボーもなくなっていたと記憶しております。それにですね、そこの大家が、まあ、なんとも性質(ルビ*タチ)の悪い人間であるのが移転後にじょじょに判明、真綿で頸を締められるようにという比喩そのままに、さらに追い込まれてゆきまして、気がつけば病気でもないのに首の廻らぬ自分、ドツボにハマってしまった自分が、鏡に写っていた訳であります。

 ある時、北二十*条の店でジョン・アーヴィングの「ホテル・ニューハンプシャー」二冊本を万引きされましたが、これは、やられた、と自転車に乗って下手人が走り去った時に気がつきましたけれど、平岩弓枝「鏨師」の時は、あっ、と声をあげたほどにみごとでした。帯を見返しに挿めた初版本を棚に納めてあったのですが、いつのまにか帯だけがなくなっており、いつお持ち帰りになられたかも気がつきませんでした。万引きでは事件になった大物の方もいて警察が後から調べに来たことがありました。北**条に移転しましてからも何点か記憶に残る紛失がありますが万引き関連はこの辺で。

 印象に残る仕入れや、私の中を通り過ぎていったお客さんや、出会った数々の古本屋さんについての思い出は、あまりにも数限りなくありまして、すべてを語るには仕事そっちのけで何日徹夜しても足らず、また、この場では語り切れぬディープな話が多いので、これらにつきましては何らかの別な形で個人的に残してゆくつもりです。そのためにも、まだ死んでなるものか、とついつい落ち込みがちの自分に云い聞かせている日々なのです。ただ、お世話になった人、足を向けて寝られない人少なからずで(と神妙に云いつつも忘恩の徒の自分は方角など気にしないで高鼾なんですけど)、今ここでいちいち名前は挙げられませんが、まことに感謝しております。その方たちのご厚意に報いるためにも、生き抜かなければ、と思っている次第であります。



Q5.昭和40年〜平成10年の間で、組合・業界の思い出について、何か一文お願い致します。大市会、親睦旅行、また故人となられた組合員の方たちについての思い出などでも結構です。

(回答)

 振り返れば後悔と悔恨ばかり、恥の多い古本屋人生でございました。云うまでもなくお金のことでは失敗の連鎖でしたが、それはちょっと置いておきまして、お酒にまつわる思い出を。
 たいして強くもないのに、遺伝もあってか、お調子者のお酒好き。酒席の雰囲気もさることながら、お酒の匂いや味そのものが無性に好きなのであり、強く惹かれておるのでありまして、古本屋店員時代から独立開店した後も、人並みに為遂げたことと申せば、確信を持って云えるのは飲酒のみ。北大(元)教養部近くの北18条から24条界隈には安くていい飲み屋さんが幾つもあり、そういう環境である時は市英堂さんに、またある時はお客さんの藤井さんに御馳走になり、たまには自分たちの金でやろうぜ、と薫風書林君を誘って、店の間近にあったホテル〈札幌會館〉(レストラン〈石狩〉の五目焼ソバも美味しゅうございましたが、惜しいことに2006年廃業)の夏季スペシャル・サービスの一杯百円生ビールをしこたま飲んでハッピーになった後、次いで焼き鳥屋なのに寿司も出る〈おしどり〉に行ったりしていたのです。そういう、お酒ばっかり飲んでいたなあ、と我ながら呆れる古本屋渡世でしたから、当然お酒での失敗も数えだしたら切りがないのでありますが、こういうおバカな古本屋も存在していたという記録として、二三思い出すままに挙げておきましょうかね。
 お酒を飲んだ後に、私はいろんな古本屋さんのお宅に泊めて貰った経験がありまして、例えば、市英堂さん、百間堂さん、八文字屋さん、薫風書林さん、ブランメルさん、八光さん、ブックス2分の1の進藤さん、旭川村田さん、帯広春陽堂さん、東京山猫屋さん、などのお宅で朝を迎えて美味しいご飯まで美味しく戴いたりしたものなのですが、ある時、弘南堂さん宅にもご厄介になったことがあったのです。店を開いた昭和61年の師走、若手と中堅?の古本屋さんが集まっての忘年会何次会かの後でした。弘南堂店舗ビルのたしか三階、まだ独身だった庄一氏の部屋で寝付いた訳でありますが、一、二時間も寝たでしょうか、目が覚めて、ここ何処だ?あ、弘南堂さんだったよな、と朦朧とした状態のままトイレに行こうと部屋のドアを開けようとしますがビクともしません。なんだ、なんだ、俺は監禁されたのか、とガチャガチャ(ガサゴソ)やっていた気配に眠りを邪魔されたのでしょう、「須賀さん、どうしたの?」と声をかけられ、「いや、トイレ行きたくて」「ドアはあっちだよ、そこ窓だけど」とドアの在処を教えられ、事なきを得たのです。迷惑なだけの酔漢に声をかけて貰い、トイレへの正しい道を教示して戴いた庄一氏には感謝に堪えません。あのまま鍵を外して窓を開け、一歩踏み出していたら私はどうなっていたことでしょう。きっと救急車の呼ばれる騒ぎとなっていたに違いありません。下手をすると霊柩車のお世話になっていたかもしれません。おそらく今日の私はなかったことでしょう。しかし、私の妻ほか、その方が幸福な人生を送られていた知人もいたかもしれませんがね。
 平成5(93年)だったかの釧路で開かれたオール北海道大市の時にも、しでかしました。札幌組合からの応援部隊として派遣された事業部員若手何人かの中に須雅屋も入っていたのです。弘南堂庄一氏、南陽堂秀了氏、薫風佐々木氏も一緒でした。陳列日の前日(下見日の前々日)夕方、庄一氏のクルマで釧路着(秀了氏はJRで先着)、豊文堂さんを見学した後、ホテルにチェック・イン、その後は食事を兼ねて飲酒した訳ですが、飲み過ぎたのか、何か食べた物が悪かったのか、夜中にサルトル、嘔吐が始まりまして、翌朝には起き上がれない状態になっておりました。仕様がない人だなあ、と庄一氏たち三人が微苦笑を残して去ってから五時間ぐらい経てからの午後3時頃、文字通り這うようにして会場に顔を出しましたが、まだ気分この上なく悪くほとんど何もできないうちに皆さんの献身的労働により陳列セッティングは終わってしまいまして、釧路組合理事長豊文堂さんからは「大丈夫?寝てればよかったのに」とお気遣い戴き、暖かい言葉をかけて戴いたのですが、札幌組合の一員としてまったく恥ずかしい失態を晒してしまい、当然のこと担当の札幌組合理事さんからは顰蹙をかい、お咎めを受け、元々なかった面目をさらに失ったのではありました。しかし、その日の夜、反省しながらも性懲りもなくまたビールなど飲みはじめていた私に、南陽堂秀了氏がニコニコしながら云ったものです。「須賀さん、またひとつ伝説を作りましたね」。
 これは平成5(93)年か6(94)年のことだったでしょうか。二泊三日の東京での古書組合研修旅行の最終日でした。やはり前夜にたくさん飲んだお酒が祟りまして、カミュの方が好きなのにまたサルトルが始まり、ホテルの朝食もパスして臥せっていなければならないほどの瀕死の状態。ですが、瀕死の白鳥は美しいが瀕死の古本屋は見苦しいだけ。促されてようやく起きだし、ふらふらしながら皆さんと一緒にホテルを出、薫風佐々木氏に抱えられるようにして、後に従ったのです、ずっと俯きながら、サルトルを堪えながら。たしか一行は弘南堂の親父さん、市英さん、石川さん、八光さん、稲野さんという顔触れで(違っていましたらお赦しを)、その後を薫風氏に支えられてよろよろと従いて行ったのです、病人のように重い足取りで。誰かの提案で、両国の江戸東京博物館を見学に行きましたが、館に入ってすぐの広い部屋に長椅子を見つけると、崩れるように仰向けになり、ずっとそのまま顔にハンケチかけたまま横になっておりました。時々、同行の古書組合の誰かが近づいてきて「大丈夫かい」と声をかけてくれましたが、酒にダラシナイ男との評価がこれで決まるのだろうな、と脂汗流しながら思っていた訳ですけれど、江戸東京博物館を訪れて、ただの一点も展示品を見ないで出てきた、おそらくは空前にして絶後、世にも珍しい男となったのでありました。たしかその後、神奈川近代文学館大佛次郎記念館を見学し、弘南堂の親父さんに文学館?の喫茶コーナーでサンドイッチとアイスコーヒーなど御馳走になったあたりから体調が急に良くなって参りまして、横浜中華街ではさらに弘南堂さんにまたまたご招待戴き、素敵に美味しい小龍包に焼きソバ、炒飯、ビールですっかりいい気分となり、復活を遂げたのでありました。
 ああ、思い出すにつけ、どれもこれも苦しい二日酔いの日々でした。しかし、昔はよかったなあ、あの日に帰りたい、たとえ二日酔いの地獄でも、あの若かった(バカだった)あの頃に。と、私は思うのです。可愛い後輩ができたら、自分も美味しい料理や旨い酒を奢れる人間になりたいものだ、と独立してからずっと思い続けていたのですけれど、そういう幸福な機会は一生来ないだろうな、と今では野心のひとつを捨て去った私は思うのです。深い諦念と伴に。

 
Q6.「組合史」についての希望、提案、苦言などなんでも結構です。ございましたら自由にお書き下さい。参考にさせていただきます。

(回答)
 なし

最後までアンケートにご協力いただきまして、ありがとうございました。