須雅屋の古本暗黒世界

札幌の古書須雅屋と申します。これは最底辺に淀んでいる或る古本屋が浮遊しつつ流されてゆくモノトーンな日々の記録でございます。

古本屋風情

 4時近く起床。曇り。3時現在の気温22.8℃、湿度85%、北北西の風4m/s、最高気温は27℃であった由。知人のメールによると日中は雨が降っていたそうだが、熟睡していたのか気づかず。

 もう一つ、これも眠っているあいだに、駒大苫小牧が甲子園史上57年ぶりの夏の連覇を決めていた。今年はついに一試合もテレビを見ることなく、ラジオを聞くこともなく終わってしまった。これは見ないようにしていたのではなく、テレビが故障しているのと、連日の朝就寝のためにすっかり生活の時間帯が狂ったため。

 涼しいので、うどんで、菓子パン、紅茶にて第1食。、メール・チェック、ブログ漫歩。

 あるブログから飛んで「松岡正剛の千夜千冊」に出た。以前にも何回か入り込んだことがあり、お勉強になりそうなのでそのうちまとめて読ませて戴こうと思いながら、いつものとおり計画のみで果たせていない。

 BACK NUMBERの案内に【1003「鶴の眼」石田波郷】とあるのが目に止り、昭和14年・沙羅書店版をお持ちなのかしらん、さすが、と思いながらクリックしてみると1996年・邑書林発行のもので、古本屋としてはいささか拍子抜け。それはこちらの勝手な思い込みであったので、まあどうでもよいと言えばよいのであるが、内容を読んで、あら?と感じられる部分がある。観や論についてではない。それは自分なんぞの手に余ることである。本文は石田修大「わが父波郷」、土方鐵「小説石田波郷」を「さあっと読ん」で「久々に波郷が蘇ってきた」ことから回想された松岡氏と俳句との関わりと、波郷についてのエッセイである。以下はその文章から引用させていただいたもの。

《「霜柱俳句は切字響きけり」という一句がどういう歴史的な意味をもっていたかは、ぼくも長じて知るようになった。波郷は俳壇では人生派とか生活探求派とか(いずれもつまらない呼称だ)、また韻文派とかと呼ばれてきた。韻文派というのは散文派にたいする否定の意味をもっていて、これは桑原武夫の俳句第二芸術論に対抗していた波郷の態度をあらわしていた。 戦後の俳壇をゆるがせた桑原の第二芸術論は、(引用者省略)・・・これに反発したり、反論できた者は俳壇側にはすぐあらわれなかったのだ。そこで波郷がキラリと刀を抜いたのである。桑原を散文派に見立て、ではその散文になくて韻文にあるものは、俳句ではそのひとつが切字の妙なのであることを静かに攻めたのだ。そこで波郷はあえて「俳句は切字響きけり」とやって、そこに霜柱を添えてみせたのだ。切字でどうだ、桑原は霜柱をどう詠むか、霜柱そのものが切字じゃないか、そう言わんばかりの対抗だった。》
 この辺りがこのエッセイ全体の中でキモの部分であり、そしてこの「霜柱俳句は切字響きけり」という句の引用が読む者に向かって、それこそ鋭利な刃物の役割を果たしていると言ってよろしいのではないかしらん、と思うのであるが、自分は胸の辺りに何か異物を飲み込んだが如き感覚を覚え、この感じは一体何なんだろう?ってあまりよくない頭に血液送り込んで確かめてみれば、それはこの「切字響きけり」の句は「第二芸術論」が騒がれた戦後に詠まれたものだったかしらん、という疑問であったのである。自分の極めて乏しい波郷に関する知識でも、どうも戦前の作ではなかったか、と思え、スガロック・ホームズは寝室へ行き、枕元から「石田波郷集」朝日文庫・昭和59年を持ち来たり調査したところ、この句は昭和18年に発行されている「風切」一條書房に収録されているという事実が判明した。で、あるからして、この問題の句は桑原武夫の「第二芸術論」に対抗して詠まれた作ではないのである。偶々「第二芸術論」(『世界』昭和21年11月号)発表の翌年に『風切』再刻版が臼井書房から刊行されてはいるが、いずれにしろ昭和10年代の作であり、桑原に対して「キラリと刀を抜いた」俳句でないことは動かない。これは、水原秋桜子山口誓子などの俳句革新運動の時期、それに続く新興俳句隆盛の俳壇において、「や・かな・けり」などの切字が極端に嫌われて使われなくなった傾向に、主宰誌『鶴』誌上で波郷が「俳句表現の散文的傾向」を廃し「俳句の韻文精神徹底」を説き続けていた頃に詠まれた句なのである。

 また、《第一句集を「鶴の眼」と名付けた俳人》と松岡氏は書かれ、補足の説明をされていないが、「鶴の眼」は波郷の自認する、希望上の想定第一句集ではあるが、その刊行の4年前、昭和10年に22才で上梓した「石田波郷句集」(収録句中103句が「鶴の眼」に再録)が実際上の第一句集である。

 てなことをいくら書いても自分には何の得にもならず、おそらくはただ、重箱の隅野郎と眉を顰められるだけで、自分のごとき古本屋風情がわざわざこんなことを書いていいものであろうか、とも少しく逡巡したのであるが、知のカリスマとして信奉される氏の「松岡正剛の千夜千冊」第千三夜が孫引きされて、そのまま事実として通用してゆくのも如何なものか、と愚考し、こんなに長々記した次第。乞う御容赦。

 だらだらとしているうちに夜となり、日記を書くこととする。11時過ぎ、琴似へ漫画を売りに行っていた妻が帰宅し、石田千「踏切趣味」を差し出す。「君が読みたいだろうと思って」、<ブ>で買ってきた由。日記を書いた後、第二食。シャワーを浴びた後、また日記を書く。

 午前10時横になり、読書少し、『踏切趣味』もパラパラ。11時就寝。本日からまた望まざる断酒始まる。