須雅屋の古本暗黒世界

札幌の古書須雅屋と申します。これは最底辺に淀んでいる或る古本屋が浮遊しつつ流されてゆくモノトーンな日々の記録でございます。

講演さまざま

 日本の古本屋(A本屋委託分)から「『別冊宝石』アメリカ作家特集」1500円注文あり。

 昨日ニュースに流れた小六女子へのイタズラで逮捕された北大工学部三年生22才。冬休みにインターネットのゲームで知り合い、自宅に連れ込んだ由だが、そのアパートが、ああ羨ましい、今風の学生向けマンションで、今時の北大生の恵まれた生活を想像させるに充分なシロモノであった。さらに本日のニュースによると、これまでゴジラ映画などで何度も破壊された大通り公園・テレビ塔の前で待ち合わせた女子児童を言葉巧みに(かどうかは報道されていなかったが)自分の車に乗せて自宅MSに導いたとのこと。MS前、雪の駐車場のクルマも画面に映され、パソコンはもちろんマイ・カーまで持っていやがったか、しかも冬休みに部屋にこもってネットにハマっていたということは、おそらくバイトもやっていなかったわけで、よほど潤沢な親の援助があったにちがなく、ああ恵まれた大学生活であったことよの、それだけにこの転落ぶりは如何ばかり親を嘆き悲しませ、一家全体の運命まで変えることであろうか、ムズカシイ数学や物理なんかは得意であったろうに、やってはいかんことが分かっていなかった、昨年の札幌某高校野球部監督の英語教諭といい、ああ、欲望というもんは恐ろしいもんであることよ、と自分は思った。

 同じくニュースによると、札幌でも男(自営業)が贋札を使って逮捕された由。先物取引(ってだいたいが胡散臭いんだけど)をやっていたが借金でいきづまり、ネットで贋札の制作法を学んで、制作に及んだそうだ。器用なもんだなあ。自分にはそんな技術はないし、第一プリンターも持っていないが、なんといっても時期が悪い。日本全国、それに韓国においても、大騒ぎになってからでは、あまりにIt's to lateだって。

 昨日のセリ場で、5月小樽文学館で講演をやる予定になっていることが、薫風と小樽のI書店にバレているのを知る。本や、本屋、古本屋、本にかかわることなら何でもいいから1時間ぐらい話してくれとの依頼で、酒席でのバカ話なら望むところであるが、あらたまった席で人前でとなると気乗りせず断ろうとしたところ、1万円ももらえるなら是非やれと妻に命じられ、これもまあ経験である、と引き受けることにしたのである。学芸員さんによると、どちらからどなたをお呼びしても1万円であるそうで、ならば大江健三郎を呼んでも1万円であるわけだが、これはまあ、まず来ないであろう。野郎、調子こきやがって(調子に乗りやがって)、とか、貧乏人の分際で生意気である、と同業者に思われるかもしれぬのを恐れたのと、それに会場の席から「ハアーイ」などどニコニコしながら手を振る薫風書林の姿なども脳裏に浮かび、古本関係者にはすべて隠密剣士でいようと誰にも言わなかったのであったが、すでに知られるところとなっていた。

 小樽文学館では昨年の10月2日、東京の石神井書林さんが「古本屋つくり・古本屋こわし」という演目で講演し大喝采を浴びている。石神井さんはH文字屋店員時代からの憧れであり目標であったので(大きく道を踏み外した自分であることはとにかく)、その著作や以前からの言動と演題から、どんな話をするのかある程度の予想はついていたのであるが、また半ばはその予想どおりの話がされたのであるが、それにもかかわらず、とても面白い講演であった。

 それに比べて、その10日ほど前に札幌で聴いた某氏の講演はおおむね好評のようであったが、古本屋からみると突っ込みが足りず、自分には今イチであった。教養主義の死滅、出版は不況であるが今ほど本が読まれている時代は日本の歴史上かつてなかった、インターネットでの情報の流通と獲得のスピードと利便性の素晴らしさ、本の愉しみ(探す・持つ・読む・語り合う)、本と自分の関わりの歴史,等々、結論としては、出版や書店、本にかかわる者にとって、現代は悲観すべきではなく、希望に溢れた万々歳の時代なのだ、というような内容であった。今の世の中で通常言われておるのとは異なる見方を提示したつもりなのだろうが、自分にはどれもこれも当たり前の話で、あまり面白くはなかった。教養主義の死滅(というようなタイトルの新書を紹介しながらの話であったが)への礼賛というのも、『本の雑誌』の出始めや、内藤陳の『読まずに死ねるか』が売れた20年〜25年前ぐらいであったなら、パチパチパチと拍手もしたろうが・・・。それに、スクリーンに書影や書店の写真を映しながら、本が大好きで、日本や世界中何処へ行っても名所旧跡は後回し、まづ最初に向かうのは古書店であると熱く語っていたが、この数日前にたまたま取材でこの某氏を訪問していた自分の知人の話を後日聞いたところによると、談たまたま古本談義に及んだところ、札幌の店では◯◯堂は知っているが、老舗K堂については名前もご存じなかったというのだ。まあ、声がよく、話そのものは堂々として上手であった。得にもならず、あっちフラフラこっちフラフラの聞き苦しい話しか出来そうもない自分からすれば、それだけで現時点においてはやはりなかなか、たいしたもんだ、なのである。とやかく他人を上げつらっているうちに、恥の上塗りの汗たらたらの釜茹で煉獄の日が近づきつつあるのを意識せざるを得ない自分なのだ。

 しかし、なんである。講演の謝礼一万円は貰えても、交通費は出ないのである。自宅から小樽までの往復にだいたい二千円かかる。季節は五月、道内では桜の時期、話を終えて外へ出れば夕暮れ青い頃、で小樽。と来れば、ただでは帰れない。謝礼は何も残らないことだろうな。噫々。